今回、対談するのはシルフィードフットボールクラブ代表 山口と東三河地区で活動するF.C.豊橋デューミラン代表 木村さんのおふたり。 2020年シーズンには、シルフィードFC出身の西川幸之介選手がJ1 大分トリニータに、FC豊橋デューミラン出身の前田紘基選手がJ2 ギラヴァンツ北九州への入団が内定。初回の今回は、おふたりの対談をお届けします。
対談者紹介
山口 高史
シルフィードフットボールクラブ代表
1975年生まれ 日本サッカー協会公認A級U-12ライセンス/47FAインストラクター
ナショナルトレセン東海U12コーチ/愛知県トレセンU-12コーチ/名古屋市トレセンコーチ/愛知県4種技術委員長/名古屋市4種技術委員長/シルフィードアカデミージュニアユース監督/シルフィードアカデミーダイレクター/中部第一高校サッカー部コーチ/名城大学体育会蹴球部ダイレクターを歴任
木村 豊
F.C.豊橋デューミラン代表
1959年生まれ 日本サッカー協会公認A級U-12ライセンス/47FAインストラクター
愛知県トレセンコーチU12,U-14/ナショナルトレセン東海U-12,U-14コーチ/東三河トレセンコーチ/F.C.豊橋デューミラン監督/F.C.豊橋リトルJセレソンディレクター/時習館高校サッカー部コーチ/上越教育大学サッカー部コーチを歴任
ファシリテーター
川浦 光晨
シルフィードフットボールクラブコーチ
1995年生まれ 日本サッカー協会公認B級ライセンス
駒沢小SCコーチ/ヴェルスパ大分アカデミーコーチ/シルフィードアカデミーコーチ
「プロサッカー選手」を輩出する要因は。
—本日はよろしくお願いします。さっそくですが、来シーズンより両クラブOBの前田選手と西川選手がプロの舞台に飛び込みます。FC豊橋デューミランにとっては5人目、シルフィードFCにとっては6人目のプロ選手の輩出となります。
両クラブともJリーグのアカデミーのように県のトップの選手が入団してくるわけではありません。それでもコンスタントにプロ選手を輩出する要因はどこにあるのでしょうか。
木村 豊(以下、木村)シルフィードFCもうちも同じですが、まずは人間性が大切だと思っています。人間が育たないと、サッカーも上手にならない。
山口 高史(以下、山口)我々のクラブでは、「サッカーを教える」のではなく、「サッカーで教える」という考えをスタッフで共有しています。
木村 うちがクラブとして大切にしていることは、「勉強とサッカーを両立させる」こと。これは全員、入団前に約束してもらっています。
山口 勉強の部分も大切ですよね。
木村 あとは基本的なこと。「自分の身の回りのことは自分でする」、「人の話をよく聞く」、「誰に対しても自分の意見を伝える」。
うちはセレクションがない代わりに、この約束だけは入団前に全員してもらいます。
山口 サッカーの能力だけではなく、人間力の部分を大切にしてるのは同じですね。
木村 サッカーだけ上手くなれば、学校生活はどうでもいいとか、「人間性は関係ない」というのはありえないのです。
山口 うちからプロになった選手も、その部分が優秀な選手が多かったですね。みんな限られた時間を自分でデザインして使うのが上手かった印象があります。
前田選手は、仲間に恵まれた
—前田選手と西川選手のジュニアユース時代のお話を聞かせてください。
木村 前田は新城市出身で背も高く左利きで特徴のある選手でした。ですが、性格的には気弱な選手でした。県トレセンや地区トレセンにも選ばれるような選手ではなかったです。1年生の秋頃から2年生チームに混ぜて活動させたのですが、当時の2年生チームは強烈な個性のある選手が揃っていて…。
山口 長くやっていると、いろいろな学年がありますよね(笑)
木村 前田はそんな環境に慣れてなくて、一時期「登クラブ拒否」のような状況になりました。
山口 どんな対応をしたんですか。
木村 一度、1年生チームに戻して、とにかく先輩達に会わないような環境におきました。どうしても練習会場と時間は同じなので、顔を合わせることがあります。そんな時は、「練習で顔を合わせるのが嫌なら、試合だけおいで」と。週末の練習や試合だけ参加するようなこともありました。
山口 サッカーに集中できる状態にしたんですね。先輩たちが悪いわけではないのですが、そういう部分でサッカーに集中できない状態になってしまうことはあることですね。
木村 結局、それ以来、上の学年が卒業するまで一度もTOPチームでプレーすることはありませんでした。ですが、同じ学年の仲間が彼を受け入れてサポートしてくれたおかげでサッカーを続けることができました。
山口 いい仲間に恵まれましたね。TOPチームでプレーしないとうまくならない、上のレベルにいけない、ということはないですよね。自分が集中してサッカーに取り組める環境で、プレーすることも大切なことだと思います。
木村 サッカー選手として劇的に伸びたのは、3年生になってからです。ちなみに当時のポジションはボランチでした。将来的にセンターバックをすることを見据えての起用でした。彼は、本当に紆余曲折あった中でプロになるまで成長した選手です。
山口 プロになるべくしてなる選手もいれば、そう思っていてもならない選手もいるし、「まさか」と思う選手が急成長してプロになったケースもあります。その経験値があるからこそ、全ての選手の成長の可能性を捨てずに関わっていくことは大切だと感じます。ジュニア、ジュニアユース年代から完璧である必要なんてないですからね。
木村 まさにそう思います。パーフェクトスキルっていうけど、できないことがあっても全く問題ない。実際、うちのOBでプロになった選手はプロになってからも、どんどん上手くなっていますから。
山口 選手の個性や特徴を理解しないで教え込むことは、危険です。
—当時のサポートのしかた次第では、プロサッカー選手にはなれなかった可能性もありますね。
木村 そうなんです。だから彼が活動に来なくなったとき、チームスタッフに「前田をどうサポートするか」を相談しました。チームスタッフは満場一致で、自分の学年のチームに戻してゆっくり育てるということを提案してくれました。この提案はうれしかったですね。「選手個々に合わせて育成していく」という考えが、チームスタッフと共有できていると実感できました。
とにかく元気で負けん気が強かった
—西川選手はいかがでしょうか。
山口 幸之介の場合も同じで、入団時はスペシャルな選手ではありませんでした。実際、他クラブでジュニアユースに上がれず、シルフィードFCに入団しました。当時は、ゴールキーパーとしてサイズがあったわけではなかったですし、技術的な部分のレベルも決して高くはありませんでした。
木村 性格的にはどんな選手だったんですか。
山口 とにかく元気だし、負けん気が強かったです。ただ試合に熱中しすぎて、ゴールを忘れて前に出すぎてしまい、大抵の失点は頭上を越されるようなシュートばかりでした(笑)
木村 元気なゴールキーパーあるあるですね(笑)
山口 今でもそうですが、当時のチームもゴールキーパーからビルドアップしていくことを求めていました。ゴールキーパーとしての技術も、もちろんトレーニングしていきますが、ひとりのサッカー選手としてのスキルを高めていくことを要求していました。そういう部分が丁寧にパスを繋ぐプレーモデルを持つ、藤枝東や大分トリニータに評価されたのだと思います。
木村 なるほど。西川選手が進学した藤枝東高校は静岡県有数の進学校ですよね。西川選手の学力はどうでしたか。
山口 サッカーのレベルと同様に学校の成績も徐々に上がっていきました。藤枝東高校に進学するときも、大分トリニータに入団が内定したときも、お母さんは大変心配なさっていましたが、幸之介も自分の時間をデザインできる選手だったので「彼なら、大丈夫ですよ。」とお伝えしました。
「このチームで勝ちたい!」
—日本代表のセンターバックとしても活躍する三浦弦太選手(現・G大阪 FC豊橋デューミランOB)は、当時どんな選手でしたか。
木村 弦太も性格的には負けず嫌いな選手でした。小学生のときは、サイドハーフだったかな。身長が大きくて、キック力はあったんだけど、適当にバンバン蹴っているだけ(笑)そして、攻撃はしても守備はしなかった(笑)
山口 身体能力が高かった印象があります。いつごろからディフェンダーになったんですか。
木村 センターバックにコンバートしたのは中1の秋くらいです。本人はフォワードをしたかったんじゃないかな(笑)
木村 そういえば、ディフェンスになってすぐのこと。今はやっていませんが、当時は練習試合の後、失点数✕10本ダッシュをしていました。その日は、センターバックの弦太が空振りをして失点しました。全員で試合後に走ったのですが、みんなが終わり帰っても、弦太だけは帰ろうとせず。結局、30本くらい走っていました。よっぽど悔しかったのだと思います。弦太に「そろそろ帰るぞー」と声をかけたら、いきなりそこら中のカバンやベンチを投げだして…。「あー、弦太、サッカーを辞めるかもなー。」って思っていたら、次の日のトレーニングには、ケロッとした顔で現われました。
山口 自分のミスでチームが負けたことがよほど悔しかったんですね。そういう悔しがり方をする選手は減りましたね。あまりいい表現方法ではないですが(笑)
木村 弦太が帰省した時に、「昔、カバンを投げたの覚えてるか?」と聞いたら、「うっすらと・・・」と言っていましたが(笑)
山口 中3の頃には、愛知県トレセンに選ばれていましたよね。
木村 最初は、トレセンとかに呼ばれるような目立つ選手では全くなかったです。中2の後半頃に、急激に伸びだして。中3の春頃、愛知県トレセンのセンターバックが怪我で離脱をしました。そのタイミングで、追加招集という形で初めて呼びました。
山口 FC豊橋デューミランは、そういう選手を粘り強く伸ばすのが、上手い印象です。久保田和音(現・ザスパクサツ群馬 FC豊橋デューミランOB)も確かそうでしたよね。FC豊橋デューミランだからこそ、伸びた選手だと思います。
木村 和音は身体が小さかったので、Jリーグの下部組織に行っていたら才能は潰れていたかもしれないですね。親御さんにも協力してもらいながら、精神的な自立を促しました。
山口 選手自身の自立は、選手がいい方に変わるひとつのポイントになりますね。
木村 和音は、入団当初「ボール扱いは上手だけど、守備はしない」というような選手でした。不思議なもので、精神的に自立しだして、友達と一緒に自力で練習に通うようになると、チームのために走り、守備で身体を張るようになってきました。中3の頃には、愛知県トレセンでサイドバックをするくらい守備のできる選手になっていました。「このチームで勝ちたい」と心から思うことが、どんなTRや指導よりも選手を成長させるのだと教えてもらいました。
山口 これこそ、「サッカーを通じて成長する。」そのものですよね。「このチームで勝ちたい」が「だから、もっと上手くなりたい」になり、上手くなるスピードを加速させますね。
「元気な姿が見れたので、帰ります。」
—育成年代では、選手が成長していく上で保護者の協力は必要不可欠です。理想的な保護者の関わり方についてはどのようにお考えですか。
木村 保護者に関して忘れられないエピソードがあります。
以前、山口くんと愛知県トレセンU12チームを連れて埼玉県へ遠征に行きました。自分が監督、山口くんがコーチという立場でした。宮市(亮・FCザンクトパウリ所属・シルフィードFC OB)が小6の時だね。
山口 ありましたね。埼玉スタジアムのサブグラウンドで試合をしましたね。
木村 その時に宮市のご両親が試合観戦に来たのだけれど、宮市のご両親は子供には一切、会わずに帰っていくんです。「会っていかなくていいの?」と聞いたら、「監督たちに任せてあるから、会わなくて大丈夫です。元気な姿が見られたのでもう帰ります。」って。その時に、「こういう家庭やご両親のもとに育ったから、自主性のあるいい選手に育つのか」と驚いたのを覚えています。
結局、宮市の学年の愛知県トレセンとは、小5から中3まで関わらせてもらいました。
山口 長い付き合いになりましたよね。長い時間、亮の成長を見守ってくれました。
木村 宮市のご両親に出会ったことが指導者として、理想的な保護者の関わり方を考えるきっかけとなりました。
—宮市選手のご両親はどんな方だったんですか。
山口 亮はアスリートの家系です。お父さんは社会人野球のトヨタ自動車の選手やコーチをしていて、お母さんは槍投げの元国体選手でした。本人は、プロサッカー選手。弟の剛も、Jリーグで活躍するプロサッカー選手です。
木村 弟の剛君もシルフィードの出身選手ですよね。
山口 優秀なアスリートだったからこそ、「自分の子供が選手としてどうあるべきか」を理解して、実践していたのだと思います。サッカーのことに関しては、我々にも子供たちにも一切口出ししませんでした。もちろん、それ以外の相談などはありましたが。
木村 ご両親が理想的な関わり方があったから、宮市自身の持っている才能が伸びて、世界に羽ばたいていけたのだと思います。宮市のご両親のエピソードをもとに、デューミランの保護者にも理想の保護者の関わり方について発信をしています。自分にとって本当に大きな出会いでした。本当に感謝しています。
指導者は、忍耐と我慢。そして、サッカーを大好きにさせる
—ここまで選手と保護者についてのお話が出ました。指導者の持つべきマインドについてはどのようにお考えでしょうか。
山口 自分が常に思っているのは、指導者は過信をしたら終わりだと思います。こちらがプロになると思っていてもならない選手もいれば、厳しいと感じていても、そこから変わってプロになった選手もいます。指導者は「選手は、自分の想像を超えてくる可能性がある」ということを理解しておかなくてはいけません。自分の考えが全てだと思ってはいけない。
木村 指導者は忍耐や我慢が仕事ということ。自分が選手に全てを教えられると思っているのはおかしいです。選手がどう変化していくのかを我慢して見守り続ける余裕を持たないといけない。指導者の価値観を押し付け過ぎずに選手の成長を待つことが大切です。我々のような街クラブにいる選手は、能力がトップの選手ではないからこそ、成長段階に合わせた指導が必要だと感じています。
山口 うちからプロサッカー選手になった6人を思い返しても、プロサッカー選手が出るたびに自問自答します。当時、より良い指導ができていれば、もっと良い選手になったのではないか、と。完璧な指導をしたような気になり、指導者としての学習を止めて「分かった気」になってしまうことが指導者にとって一番怖いことだと思います。
木村 あとは、うちの卒業生はサッカーを続けてくれる選手が多い。例えば、弦太は豊橋に帰ってくると、同期の仲間とフットサル場に集まってボールを蹴っています。本当にサッカーが好きなんだなと感じます。我々の仕事の究極は、サッカーを好きにさせることなんだと思います。
山口 そう育てるには、やはり選手がサッカーを「やらされている」と感じる指導や環境ではダメですよね。そういう指導では将来、その子が壁にぶつかったり、上手く行かない時期に直面したときに支えにはならない。
木村 その通り。自分で乗り越える力をつけないといけない。
—フットサル施設のレンタル業務をしているとたくさんのOBが施設を利用してくれたり、OB会を開催してくれたりします。そういう姿を見るとサッカーが好きで、シルフィードFCが好きなんだなと感じます。
山口 それが大切だよね。FC豊橋デューミランもシルフィードFCも複数のプロサッカー選手を出しましたが、「サッカーを大好きにさせる」というベースがあったからこそ、成し得たことだと思います。
共有して、継承していく
—これまでプロサッカー選手と多くのOBを輩出した両クラブのお話を伺いました。今後、さらにプロサッカー選手や優秀なOBを増やすために、どのようにお考えですか。
山口 FC豊橋デューミランもシルフィードFCもトップレベルの能力ではない選手たちを育成して、プロサッカー選手として輩出しています。ただ、愛知県全体のサッカー人口やポテンシャルを考えると物足りなさがあります。この地域なら、その数をもっと増やしていかないといけない。
木村 我々、街クラブにできることはJリーグのアカデミーで活躍するようなトップレベルの選手ではないものの、才能を持っている選手を引き上げていくこと。そういった点で、愛知県の現状を考えると伸びるべき才能を見落としている気がします。もっと活躍するべき選手を多く育てないといけない。埋もれている才能は多いと思いますよ。
山口 これまで私は、自分のクラブをしっかりと信念を持って良くしていくことを最優先に取り組んできましたが、指導者のインストラクターや愛知県サッカー協会の仕事に長く携わっていく中で、「それではいけないのかな」、という考えが日に日に強くなってきました。やはり良い部分は全体で共有するべきだと思います。
木村 せっかくクラブとして良いものを築いても、次の世代に上手く継承できていないクラブも多いです。
山口 このままではサッカーが、日本国内で「文化」になっていかない。クラブのアイデンティティやフィロソフィーは世代が変わっても、存在し続けないといけない。ヨーロッパの100年以上の歴史を持つクラブはクラブ内の人が入れ替わっても、クラブの軸が揺らぐことはありません。私も木村さんも次の世代に良い形でバトンを渡していかなければいけないと思っています。
木村 若い世代へ、いいものを残せるようにがんばりましょう。
山口 ぜひ!本日は、ありがとうございました。
木村 ありがとうございました。
川浦 ありがとうございました。